秋だ…

今日はアメリカはレイバー・デーで休日。水曜から子供は新しい学年が始まる。私のようにフリーランスで働いていると、休みは自分の都合で取るので世の休日とは関係のない生活になり、浮世離れがひどくなるが、夏が終わると言うのは寂しい。特に1週間ぐらい前から気温が夜は15度以下に下がり、日が落ちるのもめっきり早くなって、いかにも夏が終わったという雰囲気の気候であるのが哀しい。あっという間に雪の季節が来るのだろう。

今年の夏はニューヨークに少し旅行しただけで、後は引っ越し作業ばかり。ようやく全て必要なものが必要な場所に収まってホッとしているが、広い家(私の感覚で、だが)というのはやることが次々に出てきて面倒である。留学中にはかなり大きな家で住み込みシッターとして暮らしていたが、その時は自分が家の管理をしたわけではない。それ以外の人生、マンション/アパートメントや寮でしか暮らしたことがないので、タウンハウスに住むだけで「適応」が必要な私。キッチンの中で何歩も歩かなければ目的の物を手にできなかったりすると、イラッとして小ぶりの部屋が恋しくなってしまう。

だが、「住めば都」と言うように、そのうち慣れるのだろう。そして、多分、サイズダウンした場所には住めないと思うようになるのだろう。それに、やはり大きな空間にはメリットが沢山ある。夜遅くでもピアノの音が外に漏れていないことが分かったし、洗濯・乾燥機もコインなしで1日中好きな時に使える。巨大地下室があるだけで、収納スペースがグンと増えて、ため買いも可能になった。そして、車1台分の屋根付きガレージ(+キッチンに通じる勝手口)があるため、モノの出し入れも簡単になった。色々とグレードアップである。

ガレージ前のスペースが妙に急斜面で、冬は雪かきも大変だし、氷でツルツルするのだろうと想像すると恐ろしくなるが、それはそれで対策が見つかるのだろう。引っ越しのおかげで、今まで体験したことのないDIY系の知識を得ることができ、「目から鱗」の毎日である。同時にDIYは私の生活形態ではないと感じることも多々あるが、ネット検索のおかげで何とか生き残れそうである。

サヨナラ、引っ越しの夏…室内で達成したことが多い割りには、あまり満足感を与えてくれる種類の作業でもなかったので、秋はもう少し自己充実感を堪能できるような日々にしたい。そして、願わくば、継娘の高校への適応がうまく進みますように。

ダウンタウンのスカイライン

 

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NYC大好き!

先週末のこと―7月末に近隣の街に引っ越したばかりで、片付けるべき段ボールもまだ、あと5分の1ほど残っていたが、大学教授の友人がNYCに学生を連れて来たので、彼女に出会うために4泊旅行。さらには卒業した学校の同窓会もちょうどあったので、それにも顔を出すことに。折角の機会なので、夫と継娘も引き連れての家族旅行とした。出発当日は継娘が緊張のあまり気分が悪くなってしまい、出発が危ぶまれたが、予定より4時間遅れで無事に辿り着けた。

引っ越し作業で疲れ切っていたため、荷造りをするのも億劫で、「こんな時に旅行の予定を入れるのではなかった」と内心思っていたが、出かけてよかった。やはりNYC!引っ越しの疲れなどふっ飛んだ。

当然のことだが、訪問する回数を重ねるごとに、エンパイアステートビルを見ても、タイムズスクエアを見ても、以前と同じような興奮は覚えられない。だが、都市全体に息づく躍動感や人々から発せられるエネルギーにはNYCならではのものがある。

私は人間ウォッチが好きなので、カフェで通りを行く人々を観察しているだけでも楽しいし、地下鉄の駅で周りにいる人の衣類を眺めているだけで心が躍る。そして、あのネオン!宿泊先の窓からチカチカ光っているのを見ると、生き返った心地がする。それにパトカー・救急車のサイレン音!おそらく多くの人にとっては騒音に他ならないだろうが、消防署の近くで生まれ育った私にはサイレンの音は子守歌に近い。良くないことが起きているからサイレンが鳴るのだが、それに対処している人々が外にいてくれることが感じられる音でもあるので、私には安心の源のようなもの。

ロチェスター(特に郊外)は私の基準では人口が少ないし、皆が車で移動するので人間ウォッチなどする場所もあまりない。夜は静かで真っ暗闇に近い。それはそれで落ち着けるが、「生きている」という心地がするのは、やはり大都会の空の下である。あ~…都会シック中。

 

今回はそうしたNYCが与えてくれる以上に、出会った人々からもらったパワーも大きかった。日本の学生を引率してきた友人は、早朝から夜遅くまで学生の世話をしながらも、全く疲れた様子も見せず、最高の笑顔で食事をしながら色々な話を聞かせてくれた。彼女の研究者、母親としての並々ならぬ頑張りには、いつも頭が下がる思いである。夕食を共にしながら、彼女のエネルギーを少しだけおすそ分けしてもらった。

そして卒業校の同窓会でも、活力漲る人たちばかりに出会えて、日々の些細な悩み事など完璧に吹っ飛んだかのよう。ネットもファックスもない時代に渡米して、NY近郊で生き抜いてこられた70歳、80歳台の先輩女性たちの話を聞くと、「少々辛いことがあっても、人生、どうにかなるものだ」と前向き思考にさせられるし、新しい世界に飛び出したばかり、という自分より若い世代の女性たちの話を聞くと、私も初心に戻って人生を歩まなくては、という思いになる。さすがはNYCで集まる同窓生たち。様々な分野の第一線で活躍中の方が多く、本当に良い刺激になった。来年も同窓会に合わせてNYCに行こうかと感じているほどである。

8か月ぶりのNYCだったが、何度行っても飽きない場所である。NYC、大好き!

 

私が別行動をしている間も、今回の旅行では夫たち2人が仲良く旅行してくれて、義娘も大きくなってきたのだなと実感。最近とみに第一次世界大戦絡みの歴史に興味を持っている彼女は、WWIを特集したMETの絵画展や歴史博物館を満喫していた。私と反対で人込みが苦手なので、NYCは恐ろしい場所であったと思うが、それにも負けず、最後まで旅を出来て嬉しいことである。

旅に関して、一つだけうんざりさせられたのが、ベッド。Airbnbのアパートを借りたところ、ベッド全てがフニャフニャで、硬めでないと寝られない私には受け入れがたい柔らかさだった。全く眠ることができないので、リビングにあるソファのクッション2つを床に敷いて寝た私…もちろん、夫は驚愕していたが、布団だと思えば何ということはない。とはいえ、2つのクッションが背中の下で孤島状態に離れていくため、快適に過ごせる夜は皆無。後日談としては笑える話だが、苦労する毎夜であった。

この半年

ブログをもっと頻繁にアップしたいと思いつつも、仕事が忙しかったり精神的にブログに向かう余裕がなかったりで、今年もあと少しとなってしまった。私自身に大きな変化があったというわけではないが、家族が色々と変調を来たし、またアメリカや日本を初め、世界でさまざまな政変があり、一喜五~十憂といった日々である。この半年を振り返ると・・・

1月

トランプがアメリカ大統領になった。難民の入国拒否を初めとして、刻々と移り変わるニュースから目を離せない非常に暗い時代の到来。私も夫と共に地元で行われたWomen’s Marchのサテライト集会に参加。生まれて初めての政治集会参加である。このマーチには私のような初心者が沢山いた。それだけ、トランプが大統領になったということに危機感を覚えた人が多いということである。私の住む街も含め、各地で続々と市民グループが出来上がった。公民権運動時代からさまざまな運動に関わっている人も、今回が初めての人も、皆が民主主義を守るためにさまざまな違いを乗り超えて目標を達成しようとしている。その懸命な空気に希望を感じた。と同時にオバマ大統領の遺産があっという間に崩されていくのを見て恐怖感に襲われた2017年最初の月であった。

2月

半年ぐらい鬱状態が続いていた夫であるが、勤め先での諸変化やホワイトハウスから吹き荒れる風、さらには処方薬が変わったことなどから、仕事もさることながら日常生活にも支障が出始めた。それでも騙し騙し日々をやり過ごし、3月から短期療養休暇を取ることにして、月末にはカリフォルニア出張(+数日の休暇旅行)を決行。出張先ではそこそこ元気に仕事を遂行した夫であったが、旅の準備段階から色々と心配が重なっていた私のほうが、出張中に自動車で事故を起こしてしまった。車に乗り始めて4年―40歳台になってから覚えた技であるので、まだまだ定着しているとは言い難い。私のような初心者は、疲れてボンヤリしている時に見知らぬ都会で運転する際は、注意に注意を重ねなくては!エアバッグが破裂したあの時の恐怖感、「誰も怪我をしなくて良かった」と思ったあの瞬間の気持ちなど、きちんと心に刻み付けておこうと思う。

事故後、少し運転をするのが怖かったが、そうは言っても日用必需品の車を避ける訳にはいかない。「冷静に、冷静に」と自分を騙しながら、翌々日にはマンザナー強制収容所を目指して車で北上した。長い間訪問したいと思っていた場所だったが、トランプの移民排斥の風潮を目の当たりにして、今回は訪問が必須だと感じた。収容所でなければ自然が美しい場所である。改めて、人の歴史がすぐに狂気へと走る傾向のあることに気づかされる。

3月

夫の6週間の短期療養生活がスタート。だが、保険会社はスムーズに療養させてはくれない。毎週のように提出する書類が山のように到着し、電話で何度も病状説明をしなくてはならない。病気の人をより病気にしてしまうようなシステムである。さらには、継娘の登校拒否や鬱も(ここ数年の問題で、突然発生したわけではないが)この時期にひどくなり、夫は休む暇がない。勤務先の仕事の代わりに雑用が5倍ぐらい、どっと増えたような具合である。保険についても継娘についても、夫でないと処理できない問題が山積し、自分の鬱を治すどころではない。

そうこうしている内に、継娘の精神科医から、現在通っている学校が合っていないようなので、可能であるなら引越し(+学区替え)を検討するのはどうかと提案が出た。9月から彼女は高校に入るので、学区を替えるには良い時期であるが、そのような近い将来の引越しは考えていなかったし、夫は休職中であるし、どうしたものか・・・だが、継娘本人は引越し、転校に非常に前向きであるので、彼女がそれで快方に向かうのであればと願いつつ、賃貸物件を探し始めた。

そして、その矢先にある日、夫が「心臓付近が痛い」と言う。心臓や肺に問題があるのかと念のためERに一晩泊まって検査を受けたが、どこにも異常がなかった。おそらくは心因性のものだったのだろう。「念のために」と言われて救急車に乗って出たのだが、日本と違って無料ではない。保険でもカバーされずお高くついた。何もなかったので良かったが、あの救急車は不必要であった(と今でも思う)。

次から次へと私ではどうにも手伝えないことが続出して、さらに、夫が毎日家に居るという状況にも慣れられず、私も精神的に消耗させられる1ヶ月だった。

4月

引越し先探し、そして、夫は月の最後に行われたMarch for Scienceの準備に追われる1ヶ月。仕事はしなくても政治活動は出来るのかと思われそうだが、夫にとっては、鬱状態にあっても唯一情熱を傾けられるものが、政治活動のようである。彼が家から出る機会を与えてくれる、そうした活動の場が存在してくれるのは有難い。昨今の政治情勢のために意気消沈もさせられつつも、社会との繋がりを密接に感じられるこうした運動のおかげで、彼はエネルギーを取り戻せる様子である。

一方、継娘のほうはますます登校ができなくなる。ここ数年、この時期は彼女にとって1番辛い時期だったが、今年は年齢的なこともあるのだろう。昨年以前に増して鬱状態が悪化し、欠席・遅刻が多くなった。そして、こうした病状のために、この月に予定されていたワシントンD.C.へのスクールトリップには連れて行けない、というお達しが学校側から届く。その通告が彼女の1週間の春休み前に届いたので、急遽、落胆する継娘のためにワシントンD.C.へと家族旅行。

初めてのワシントンD.C.の感想は「全てが大きい」ということに尽きる。アメリカの偉大さを自慢するかのように立ち並ぶ記念碑や各種の建物、一つ一つが巨大である。そして、NYCのようにゴミゴミしておらず、アメリカの他の都市に比べて清潔感が漂う。さすが首都だと思ったが、個人的にはNYCのエネルギッシュな雰囲気のほうが好きである。あるいは、今回の旅行では疲れていたのでそう感じただけか・・・とにかく、突如強行した旅行であった上に、夫も継娘も調子がイマイチであるため、普段より神経をすり減らす4日間となったことは否めない。

旅行途中、ある賃貸物件の事務所から部屋を見にこないかという電話。地元に戻ってすぐに見学に行き、思っていた以上に良い部屋なので7月の引越しを即決した。ようやく一つ大きな結果が出せて安堵である。

5月

夫の鬱状態は改善されず、会社に戻ることは全く無理な様子。そこで短期療養休暇から長期療養休暇へとスイッチしてもらう。この作業が再び、数多くの書類や電話連絡を伴うもので、夫の休養時間を蝕む。短期と長期では扱う保険会社も違い、長期になると給与は保険会社から出されるようになるなど、休暇を取ってみないと知らないことだらけ。こうした処理が面倒だから休暇を取らないという人もあるのではないかと感じてしまう。

継娘のほうは、1ヶ月ほど「半入院」状態に。病院で寝起きをするのではなく、自宅から毎日大学病院に通って、入院している子どもと一緒にプログラムを受けるというものである。これには個別カウンセリング、集団カウンセリングなど親もかなり参加する機会が増えるので、夫も出席しなくてはならないことが多々。よって彼自身がゆっくり休息を取ることは再び皆無となってしまった。通常とは違うプログラムであるため、こちらの方でも保険に関する諸手続きがややこしく、この作業も全てが夫の肩にかかってしまい、娘の精神状態を考えるのみならず、諸雑用に忙しくなる。

継娘の自傷行為が認められたため、家の中でも切れ物などの保管に通常以上の注意を向けなくてはならず、特別プログラムを受けているというだけで、彼女はいつもにも増して精神的に不安定。家族中が常に雲の影の下をうごめいているような状況で、正直なところ、私も辛かった。自分は健康なのだから、イライラせずに温かく傍で出来ることをしてあげないと、と思いつつも、自分までも理由もなく気分が滅入るのが分かる。

自分が鬱に引き込まれないようにと気分転換(=仕事)をするだけで精一杯の1ヶ月だったような気がする。

6月

継娘は月初めに通常の学校生活に戻ったが、精神科に半入院した後に普通の生活に戻るのも、これまた大変な様子。幸い、今日でようやく学校が終わるので、夏休みになれば少し気分的に楽になってくれることだろう。夫は今月もまだ療養中である。インフルエンザのように昨日まで熱が出ていたのに、それがあっという間に終息した、というような治り方はしないのが鬱であるから、徐々に回復はしているのかもしれない。あるいは、まだまだ回復には長い道のりなのかもしれない。

私はあと1週間で自分のオフィスにサヨナラを言う必要があるため、感傷に浸っている最中。結婚してすぐに仕事が入る前から夫が用意してくれたオフィスだが、引越しに伴って(次の家ではスペースが広いため+家賃も上がるため)オフィスを去ることにした。自分で決めたこととは言え、「自分の仕事場」と呼べる空間がなくなるのは不安である。通勤という生活形態がなくなるのも不安である。家でもきちんと仕事がこなせるのだろうか?家に閉じ込められたような気分にならないだろうか?色々と否定的な想像をしてしまう。

だが、無くなるものは無くなるのだから仕方がない。未練を持つより、新居での生活に希望を見出すほうが大切である。ということで、少しずつ荷造りを進めよう。

夫も継娘も1ヵ月後、2ヵ月後にどんな病状なのか全く予想がつかないのが現実で、引越し自体、転校自体が2人にどう影響するのかも分からないが、とにもかくにも家族全員が倒れてしまっては大変である。夏の間もうまく息抜きを心がけて、少しでも穏やかな家庭の雰囲気作りに心を尽くさなければと感じている。

『恍惚の人』再読

20数年ぶりに有吉佐和子の『恍惚の人』を読んだが、「この小説が書き下ろされたのはいつだったかな?」というのが感想である。古本セールで購入した単行本の後ろを見ると、刊行は昭和47年となっている。私が生まれて数年後だが、内容的には驚くばかりに現在の日本の問題を提示している。日本の老人福祉は全く進歩を遂げていないのではないかと思うほど、各登場人物の心情には、現代に生きる我々の思いに通じるものがある。

もちろん、昭和47年に比べれば、医療も発達し、老齢年金も(将来的には危機感を感じざるをえないが)制度的には定着し、各種老人ホームの数も急速に増え、ヘルパーの派遣など福祉面ではかなりの発展を見てきた日本である。

だが一方で、個々の生き方も随分と変わり、それに応じた社会の仕組み作りが追いついていない。配偶者や子供を持たない人々が増え、専業主婦の数が少なくなり、結婚後も夫婦で共働きの世帯が増えた。そうした中、男性優位の日本社会ではやはり介護を行うのは圧倒的に女性の仕事であるのは変わらないが、とはいえ、男性の中にも介護休職および退職を余儀なくされる人も増加している。「恍惚の人」が家族に出現すると、50年前より選択肢は広がったとはいえ、やはり何らかの形で誰かが自分の人生の一部を犠牲にする必要が出てくる。

もちろん「犠牲などではない」と思っておられる殊勝な方もこの世の中には存在する。そういう人を私は尊敬するし、「恍惚」状態になったご本人も、そのような世話をしてくれる人が傍にいて幸せだろう。だが、「個」としての自我が50年前より強まった我々のほとんどにとって、この小説の登場人物たち以上に、老人介護で自分の生活リズムを乱されることは苦となることだろう。少なくとも、私自身はそうである。自分も両親も誰しもが老いて、最後には死ぬのは分かっているが、できることならば、親には痴呆にはなって欲しくないし、自分も「恍惚の人」にならずに死を迎えたい。

数週間前に85歳の伯父が肺炎で亡くなったが、その前には何年もの間、痴呆で苦しんでいた。本人も辛かったのかもしれないが、それよりも伯母のほうが俄然、辛い思いをしていた。毎晩のように起きる徘徊や暴力、飽きることのない食欲や下の世話など、まさに彼女は寝る暇さえ失われていた。老人ホームからは徘徊や暴力のある老人は受け入れが無理だと言われ、結局、精神科に入院することになった。そして、そこで肺炎にかかり数週間もしないうちに亡くなった。伯母は「入院させなければ死ななくて良かったのに」と後悔する反面、「あの時点で入院させなくては自分自身の身がもたなかったのだから仕方がない」とも感じている。

自宅にヘルパーを入れることも考えられたが、伯父の場合、他人が入ってくると非常に暴力的になり、手に負えなかった。私の母は70代で今もパートでヘルパー職に就いているが、母が応援に駆けつけても伯父の見えない所に隠れていなくてはならず、あまり役に立てなかった。自分の妻(本人は母親と信じているようだったが)以外には介護が無理だったのである。そうした状況では、精神科で落ち着くように安定剤などの投与をしてもらう以外、伯母の健康を保持する方法はなかったのだろう。

上のような例を考えると、痴呆の人々の看護というのは一筋縄ではいかないものだと改めて感じさせられる。特養やグループホームなどで痴呆老人の受け入れをもっと積極的に行うように制度を整えるのは大切であるが、そうは言っても、個々の老人の状態が全く異なるのである。それに対処するには、世話をする側の人数を大幅に増大しなくては無理な話だろう。だが、福祉以外でも多難な将来を迎えつつある日本で、介護施設の充実が十分と言えるようになるのがいつのことか、あまり明るい期待が持てない。単行版の『恍惚の人』の解説最後で、社会福祉学者の森幹朗は「政策はまだ本書の問題的に答えていない。その意味で、この小説はますます今日性を増しているといえよう。しかし、本書が一日も早く歴史上の本になることを願っている」と記したのが昭和57年。だが、平成に入って長くなるが、状況は同じである。

それにしても、有吉の筆致には驚かされずにはいられない。読んでいて、昭子をはじめ、信利、敏、京子、近所の人々、全員に感情移入ができるのである。茂造のせいで自分の仕事を犠牲にしなくてはならない昭子の苛立つ気持ち、世話をできるのは結局は自分だという正義感を感じる彼女の気持ち、自分も老いて親と同じようになるのではないかと恐怖を覚える信利の気持ち、両親に「お祖父ちゃんみたいになる前に死んでね」と直球で依頼する敏の気持ち、それぞれを簡単に理解できてしまう。登場人物全員が、私が「恍惚の人」を目の前にして感じるであろう感情を一つ一つ表現してくれている。

だが、こう感じるのも私が歳を取った証拠だろう。たしか私が5、6歳の時に母が真剣に『恍惚の人』を読んでおり、その話をしてくれたが、当時は私には全くの他人事であった。ただ、ボケた人が「恍惚」なのだという間違った概念が頭に残り、中学ぐらいで「恍惚」の実際の意味を知った時に驚いた覚えがある。そして、高校ぐらいで有吉の本を読んだが、その時も自分の人生の延長線上に、この「恍惚の人」が関係してくるとは真剣には考えなかった(と思う。何しろ、読んだということだけしか覚えていない。)

その後、祖母(先日亡くなった伯父の母親)がアルツハイマーとなり、社会でホームヘルパーの存在が大きくなった当初に母がヘルパーの資格を取り、仕事を始めたことから、老人介護に対して以前よりアンテナを張るようになった。そして、アンテナを張れば張るほど、私としては「痴呆にはなりたくない」という思いが強まるのが事実。これはヘルパーをしている母も同じである。母も職業として、他人様の世話をすることは喜んでできるのだが、家族の面倒は見たくないと主張する。気持ちの上で家族が痴呆になった時と、赤の他人が痴呆である状態を見るのとは異なるものなのである。ましてや、自分自身が痴呆になることなど、様子が分かっているだけに嫌なことだろう。

痴呆が医学的に解決されるのはまだまだ先のことであるから、痴呆の問題は今後も私達を悩ませ続けるのだろう。福祉が行き届いたとしても、ホームに預ける時には家族個々人には複雑な思いが残ることだろうし、親や親類の痴呆を見て、それを自分の老後や死に様に結び付けない人もないだろう。それを常に意識するかどうかは人それぞれだろうが、「恍惚の人」を目の前にした我々の思いは、痴呆というものが医学的に治療可能になるまでは、いつの世もこの小説が語る通りだろうと感じる。

 

 

2016年度 年末雑感

今年もあと1日。12月初めに旅行から戻った途端に、マンハッタンの雑踏からもらってきた風邪のウイルス菌にやられ、風邪は数日で治ったものの、咳が残ったままである。この季節は比較的、仕事が少ない時期であるので、普段より頻繁にジムに行こうなどと心に決めていたが、運動どころでない。家事以外で動かないため、体が鈍っているのが目に見えて分かり、腹立たしい。

さて、この年末は世の多くの人々同様、私も妙に気が沈む。刻々と2017年の大統領就任式が近づいると思うと、不安が募るばかりである。アメリカに住み始めて4年。様々な問題点は噴出するにしろ(多くは、議会共和党員の妨害に起因するものであったが)オバマ大統領に任せておけば、彼は少なくともアメリカの社会を、明るい方向に牽引してくれた。市民による大統領の言動チェックがなくとも、品位を持って粛々と役目を果たしてくれた。

だが、そんな安穏とした時代ももうすぐ終わり。今後の4年は、大統領の言動(トランプはツイートするのがメインの仕事で、実際の「動」の部分は取り巻き陣の仕事かもしれない)を目を皿の様にして監視しておかなくてはならなくなる。まさに、「一寸先は闇」の世界の到来である。その闇に何があるのか、日頃の不勉強のせいで、なかなか把握がままならない私のような者には、かなり恐ろしい状況であるが、不安を抱くだけでは、知らない間に飛んでもない社会になっていきそうである。自分の力の及ぶ限りの範囲で、自分と家族の生活、社会、より良き将来のために思考し、思考を行動に移していかなくてはならない。

こうした不安や憤りなどに振り回されがちな11月以降を送っているが、それでも一つ言えるのは、こうした不愉快な感情を持ち得るのも、私がこの世に生きている証拠だということ。もちろん、生き地獄という言葉があるように、生きているより死んだほうがマシな状況に生きる人もいるわけで、生きているから幸せとも一概には言えない。だが、暖かい部屋でお茶をすすりながらブログを書ける、現在の唯一の悩みは咳だけ、という平和な暮らしを送れる私は、「生」に対してもっと畏敬の念を払うべきだろう。

こうしたことを例年に比べて今年は強く感じざるをえない。というのも、大学時代の同級生が1月に癌で他界したからである。

私より8か月前に結婚した彼女だったが、結婚生活が始まって間もなく体調を崩し、そのままガン切除の手術を受けた。最後に出会ったのは、私が渡米する前。実家に戻って療養生活をしている最中で、体力的に辛そうだったが、痛みをおして私に出会いに来てくれた。その後、実家から自宅に戻ったが、その生活も数カ月しか続かず。私が2015年の夏に一時帰国した頃には再び入院中で、「次に帰国した時にはぜひ出会ってね」と言われ、出会わずじまいとなった。

その後、11月には彼女の誕生日があり、12月には私の誕生日にクリスマス。20年以上にわたり、出会えない時も、誕生日のお祝いや季節の挨拶をお互いに欠かすことはなかった。だが、去年は彼女の誕生日の後にも、「プレゼントが届いた」メールも入らず、クリスマスを過ぎてもお正月を過ぎても彼女からの連絡はなかった。彼女の結婚後すぐに渡米したため、ご主人とも親しくなっておらず、嫌な予感がする中で数カ月を過ごした。

そして、4月の終わり頃にお母さまから手紙が届いた。「今年1月8日にA子が亡くなりました」と。そこには、最初の入院時に私が送ったカーディガンを彼女が最後まで毎日着ていたこと、私が過去に送った手紙やカードをお守りのようにベッドサイドに置いていたことなどが綴られていた。

率直なところ、このブログ記事を書いている間も、まだ彼女が亡くなったことが信じられないのが本音である。最後の数年、地理的に離れていたため、彼女が病気と闘っていた時の姿も見ていないし、葬儀にも出ていない。肉体的に彼女がこの世に存在しないことを確かめられなかったため、訃報を聞いてもイメージが湧かないのである。「寂しい」という思いはあるが、それとは違う不可思議な感覚にとらわれたままである。おそらくは、次回、日本に戻り、彼女の墓前に立った時に彼女の不在を実際に体感することになるのだろう。

それにしても、彼女はまだまだやりたいことが沢山あったことだろう。学生時代から真面目だったが、就職してからも、夜、家に戻ってから翻訳の独学を続けていた。(図らずも、私のほうが先に翻訳業に就いてしまったが、彼女が生きていれば、今頃、実務的な話ができていたことだろう。)その後は、翻訳の勉強と並行して、姪や甥の誕生と共に子どもの教育にも興味を持ち、こちらも独学の末、見事に保育士試験に合格した。そして、結婚をして新しい家族を持ち始めたところだった。家庭の中でも外でも、やり残した事ばかりであったと思う。思いもよらぬ病気のために、こんなに早く世を去らなくてはならないとは、悔しかったことだろう。

思い返せば、彼女と一緒にお茶をしながら、大学時代に教えてもらった先生方が数人、若くして他界されたこと(50~60才台)について話をしたのは数年前。「先生たち、激務で疲れてはったんかなぁ?」とのんびりとした口調で彼女が言ったのを覚えている。あの時、彼女は自分がすぐに同様に鬼籍に入るとは想像もしていなかっただろう。今、私は彼女に対して同じ質問を投げかけたい。「あの先生たちより若くして逝っちゃったけど、A子ちゃん、疲れてた?」と。

人を含めて生き物の「生」というのは、本当に不規則で不公平なものであると、今だ現実味の湧かない彼女の死によって、私はまざまざと見せつけられているような気がする。不公平感満載の、最後まで不確実な人の「生」であるが、それにもかかわらず、それぞれに与えられた「生」を最後まで続行しなくてはならないのも事実。それならば、なるべく楽しく、愉快に過ごしたいものである。「友人の分まで生きる」などとおこがましいことを言える立場ではないが、歴史の一部分を彼女よりも少し長く見られる者として、その幸運に感謝しつつ2017年の幕を開けたいと思う。

Happy New Year to you all!

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フィンランド駆け足記録2

13日目

眠い目をこすりながらベッドから出ると、コテージの前に素晴らしく清々しい湖の景色が広がっている。夫も継娘も起きてくる気配がないので、一人で朝の気持ち良い空気を沢山吸う。

このコテージには、母屋の中には電気式のサウナがあり、外には別の棟でサウナ棟があった。こちらは薪を使って温める本格的なもの。残念ながら、のんびりする時間がない私たちは電気式のものしか使う余裕がなかったが、フィンランドっ子はサウナで体を温めては、この湖に裸で飛び込むのだろうと想像する。

この日、私は友人と出会う約束をしていたので、11時に彼女にピックアップしてもらう。彼女とは10代以来の友人である。最初はペンパルとして紙媒体で友情を育み、その後、私がイギリスに出かけた時に一緒にロンドンを廻り、7年前にはフィンランドの彼女と家族が住む家にも滞在させてもらった。近年はネット上で常に繋がっている状態なので、昔に比べると離れた距離にいる気がしない。今回も先月辺りに出会ったかのような感覚で、サヴォンリンナのカフェでお茶をしたり、散歩をしたりして、近況を伝え合った。

午後2時をまわり、友人が1時間離れた彼女の町に戻る時間が来るが、夫にテキストを送っても一向に返事がない。仕方がないので再びコテージまで送ってもらうと、夫たちは出かける準備をかろうじて完了したところ。友人が去った後、4時前にようやく観光に出発した次第だった。

しかーし!フィンランドでは8月の終わりと言えば初秋である。地元の学校は8月中旬から学校がすでに始まっており、サマーシーズンではない。オラヴィ城の内部見学をするつもりだったが、この日は見事に3時に閉館していた。私は前回のフィンランド訪問で中を見ているので良いが、夫も継娘もはるばる尋ねた城の見学チャンスを逃すことに。結局、城の周辺部でまだ開放されている場所を数分歩き、お茶をするだけでこの日は終わってしまった。観光面では多いに不発の午後である。

夜は1時間ほどゆったりとサウナを楽しむ。サウナに毎日入れたら最高だっただろうが、移動のし過ぎで時間がなく、この日しかサウナは体験できず。残念なことである。

 

14日目

再び移動である。東のサヴォンリンナから西の海岸沿いにあるラウマまで、途中休憩を入れて12時間のドライブとなった。そして、この日は生憎、いずれの地方でも雨。ドライブをする間、都市毎に変わる景色を楽しめるかと思っていたが、車窓外が見えない程の雨が降る時もある。ひたすらワイパーの音を聞きながら前進するのみである。

ラウマではファームハウスに宿泊したが、ここが私としては最高であった。ファームハウスという名とは裏腹に、シャワーや(私たちが使う時間のなかった)サウナ、洗濯機(& 乾燥機!)、キッチン、エアコンなど全てが最新鋭のハイテクで、なおかつ、19世紀の雰囲気が漂う落ち着いたデコールになっている。隣の棟に住むオーナーも非常に親しみやすく、到着すると私たちに農場の歴史など写真を見ながら語ってくれた。ここに1週間滞在できていたら、今回の旅はずっと違うものになっていたのになぁ、とついつい考えてしまう。

 

15日目

前日の長いドライブ疲れで3人ともど~んより気分。計画としては中世都市のラウマを観光し、その後、夫の縁者の家に出かけるはずだったが、体力的に無理であった。ラウマ観光は削除し(何のためにラウマに泊まったのか分からない)、昼過ぎにかけて縁者の家に向かうことに。

これがまた、ラウマから2時間近くのドライブである。フィンランド南部のトゥルクやナーンタリなど有名な都市のある地域の西側海上に、小さな島が沢山浮かんでいるが、その一つの島にあるリュメッティラという町に向かう。

私の夫はフィンランド人の血筋であるため、若い頃に2度フィンランドに長く逗留したことがある。10代の時にホームステイをした遠い親戚先が、この日訪れた家庭である。コーヒー好きのフィンランド人。この日もアフタヌーンティーならぬアフタヌーン・コーヒーとデザートで私たちを迎えてくれた。若い時の夫を知る彼らの友人や、近所に住む他の親戚家族も訪ねてきてくれており、(時折、ほとんど忘れたフィンランド語で夫が話をする時以外は)主に英語で楽しい語らいの時となった。

コーヒーの後は、その家族が開発に関わったマリーナに案内してもらい、次は訪ねて来てくれていたもう一夫婦のお宅にもお邪魔する。夫がティーンの時に彼の世話をした人たちであるので、当然のことながら、私の親世代であるが、フィンランド以外の世界についても造詣の深い、話していて楽しい人々だった。シャイな継娘は一人で黙々とイラストを描きまくっていたが、彼女にも温かい眼差しで接してくれたことに感謝である。

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16日目

フィンランド最後の日。この日はもう一軒、別の遠い親戚からランチに招待を受けていた。(ちなみに、夫の近い親戚は皆、アメリカに渡ってきた人々ということになる。)ラウマより北に向けて30分のドライブで到着。彼女は親戚の系図作りに10代の頃から取り組んできた人物で、彼女のおかげで、アメリカにいる夫たちもフィンランドの古い親戚とさらに繋がりを深められるようになったらしい。

彼女をピックアップした後、彼女のご両親の家でランチをさせてもらう。ベジタリアンの私たちに合わせた料理を用意してもらい、有り難いことである。ただ、私たちはフィンランド語を理解できず、このご両親は英語を理解できず、という中で、さらにはフィンランド人に典型的な寡黙な方たちであったため(打ち解けるまでに時間がかかる一般的日本人に通じるところのある特徴)、沈黙の瞬間が何度も流れるのには閉口した。初歩的なフィンランド語を勉強しておくのだったと痛感した時間である。

ちなみに、フィンランド(あるいは北欧)では若い世代(60歳代以下)は高卒でも英語を流暢に話せる人が大勢いるため、英語が話せる限り、旅行をしていても不自由は感じない。フィンランドの教育レベルの高さを感じさせられる一面である。

庭には蝶が舞い踊っていた

庭には蝶が舞い踊っていた

彼らの元でランチを終えてからは、飛行機でスウェーデンまで戻らなくてはならないため、ヘルシンキに向かって一路南下すること3時間。この日はお天気にも恵まれ、心地よいドライブとなったが、途中の町で車を降りて、少しでも観光する時間が持てていたらと残念である。

夜8時過ぎの便で無事にストックホルム行きの飛行機に搭乗。1時間程度の短いフライトではあるが、ドライブ疲れで爆睡したのは言うまでもない。

 

17日目

すでにフィンランド記録「外」であるが、最終の夜はストックホルムの飛行場近くのホテルに宿泊し、3時間も眠らないうちに起き、暗いうちに再び飛行場に向かった。JFKに向かう飛行機では、朝の明るい光が差し込む中、なかなか眠れず、あまり睡眠と取らないうちにアメリカに戻ってきてしまった。最後まで移動でバタバタし通しの旅行であった。

ただ、昨年の日本への旅行とは異なり、継娘が穏やかだったので、父娘喧嘩がほとんど起きず、その点では疲れ方が違っていたかもしれない。彼女の食にまつわる心配は事欠かないもの、こちら側も事前に食材を持参するなど、対策も万全に行ったため、意外にスムーズだった。フィンランドで夕ご飯にワッフルかパンケーキを食べたいと毎晩のように要請されたのには参ったが・・・そうしたカフェ的なものはフィンランドでは夕方までには閉まってしまう。24時間何でもあり、というのはアメリカと日本の文化的傾向なのだと改めて感じさせられる。

3人が疲労で倒れることなく戻って来れたことで良しとせねばならないが、今後は、密に移動計画を立てて、時間を無駄にすることのない旅行を行いたいものである。

フィンランド駆け足記録1

9日目

ストックホルムの宿を朝6時過ぎに発ち、飛行機でフィンランドはヘルシンキへ。午前10時半には到着できるので、ようやく休暇に入った夫も共に、すぐに観光をする予定だったが、継娘がストックホルムの空港に着いた時点で気分が悪くなり、状況がどんどん悪化する。前夜からの寝不足がたたったらしい。天気も良く、観光には最適な日だったが、泣く泣く早目にアパートに入り、休養の1日とする。

ヘルシンキで借りたアパートは、20世紀初期の建物と言うところだろうか。フィンランドにはよくあるが、エレベーターの入り口に手動で開く扉がついているもので、2人乗るとギリギリの小さなものであるため、スーツケースの運搬には何度も上下しなくてはならなかった。カンピ・センターのすぐ近くで、食料品の買い出しには便利な場所だが、案の定、ここの洗濯機にも乾燥機がついていないことが判明。少しずつ洗濯しなくては室内では乾きそうもないので、到着して早々に私は洗濯おばさんに化す。

10日目

前日の疲れが尾を引き、スロースタート。午後後半にようやく宿を出て、現代美術館キアズマへ。私はヘルシンキは2回目の訪問だが、前回は行けなかった美術館の一つである。新奇な発想に堪能する。

その後、エスプラナードに向かって歩いていると、ついにスタバを発見。継娘はスタバかティム・ホートンでなければ、カフェでも何も口にしないタチであるので、勿論、立ち寄ることになった。アメリカを発ってから1週間以上ぶりのスタバである。

スタバでくつろいでいると、夫の遠い親戚の男性から連絡が入る。ヘルシンキに入ってから、夫がにわかに数人の親戚・縁者に出会えないかと打診を試みていたが、それに対する最初の返信であった。「30分後に出会おう」という電撃回答で、瞬く間に車でピックアップしてくれた。

そして、連れて行ってくれたのはマルミ空港。現在、ヘルシンキの主要国際空港はヴァンターであるが、ヴァンターが出来る前はマルミが主要空港だったようである。歴史的にも価値のあるマルミが廃止される危機に陥っており、彼はその反対活動に参加している。その日も会議があるということで、会議の前に私たち3人に飛行場を案内してくれたのだが、彼にとってはヘルシンキで現在、1番ツボな場所のようであった。夫が10数年ぶりに出会う遠い親戚と突如出会うことになり、行き先は観光地から離れた飛行場・・・面白い体験である。

 

11日目

ようやく朝から旅行者気分となってきた3人・・・だが、天気のほうが私たちに優しくない。しとしとと雨が降る中、大聖堂のある方向へと町を歩く。個人的にはストックホルムより好きな都市である。

この日、目指したのはスオメンリンナ島。継娘の希望でおもちゃ博物館と軍事博物館を訪問した。要塞として大切な役割を担ってきたこの島には、今でも海軍演習地や軍関連の建物が多い。

夕方、島を去る頃になり、ようやく陽がさしてきた。ところどころ、葉を赤く染めた木が点在する、初秋の気配漂うスオメンリンナであった。ヘルシンキ市内に戻ると、ベンダーで美味しそうなフルーツが売られているのを発見。スーパーのものより確実に美味しそうであるため、つい大量にベリー類を買ってしまう。

ちなみに、昨年の日本旅行と違い、継娘が博物館や美術館を嫌がらずに、というより興味のある所には率先して行くようになってくれたので、今回は非常にスムーズに事が運んだ。1年で随分成長するものだなぁという思いである。

 

12日目

もっとヘルシンキ観光をしたかったが、未消化のうちに後ろ髪を引かれながら次なる地、サヴォンリンナへ。東部の湖の多い地域である。そこまで車で約6時間・・・とグーグルマップは教えてくれたが、そうは問屋が卸さない。ロシア国境に1番近い所をドライブしたいという夫の立っての願いもあり、進路を少し変更したことも重なり、8時間近いドライブとなった。その間、ロシアとの国境検問所まで行ったわけでもないので、ロシアのナンバープレートの車が多いなぁということぐらいしかロシアとの距離が近いことを教えてくれるものはない。ただただ、木々を眺めながらのドライブである。

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サヴォンリンナの町の中心から15分ぐらいの場所にある、湖に面したコテージをここでは借りたが、地図にも載っていない道なき道を行かなくてはならないため、コテージを探し出すのに一苦労。翌朝、周囲の環境を見渡すと、限りなく素晴らしい景色が広がっていることに気づくのだが、到着時には暗くて何も見えず。三者三様に移動だけで疲れ切って幕を閉じた1日となった。